クソニート牧場の日記

37歳のクソニートが新たな道を模索しています

ブスと野獣

俺はディズニー作品が好きなのだが、今回はブログのタイトルからもわかる通り(?)美女と野獣の話をしようと思う

ご存知の方も多いと思うが、美女と野獣は野獣に変えられた王子が美女(ベル)との真実の愛に目覚め、野獣は王子に戻り2人が結ばれて終わるラブストーリーである



あらすじ



そもそも野獣に変えられた経緯であるが、まだ人間だった王子の元に老婆が現れ、1晩泊めて欲しいと頼み込むが、王子は老婆の醜さにそれを拒む

怒った老婆は正体を表し美しい魔女の姿になり、「お前は老婆の姿を嘲笑ったが、自分が野獣の姿になり反省するがいい。その姿でもお前が真実の愛を見つけられれば、元の姿に戻してやろう」

というのが物語のあらすじである



個人的にはここからツッコミどころ満載である



そもそも1晩の宿を頼みに行くのに城に行く馬鹿がどこにいるのか?

現代でいえば「どうか今晩泊めてもらえないでしょうか?」と



皇居や首相官邸に行くようなものである



泊めてもらうどころか投獄されても文句は言えない

このあらすじの部分は、醜い見た目の老婆を王子が冷たくあしらったということを強調したいのだろうが、むしろ王子に謁見出来ているのでかなり丁寧な対応なのではないだろうか?


だって俺が汚いパーカーで出向いても



天皇陛下安倍総理に謁見出来るとはとても思えないのだから



教訓にならない



まああらすじの部分は目をつぶろう

ここは「見た目で判断する王子が、その事によって罰を受けた」ということが大事なのだ

もし編集さんでもいれば「先生、ちょっとここご都合主義過ぎませんか?」と言われそうだが、編集さんのいない時代のお話だからしょうがない



それよりも、もっと物語として致命的な矛盾美女と野獣にはあるのだ


考えてみて欲しい、美女と野獣において伝えたいテーマや童話としての教訓とは何か


それは「見た目で判断せず、相手の心を見なさい」


ということのはずだ



なら美女とくっ付いてどうする!?




くっ付くならブスとくっ付けよ!!




「ブスと野獣」じゃないと物語としておかしいだろうが!!



「見た目が悪い相手を愛する」という、物語の根幹となる試練を乗り越えているのは、明らかに野獣を愛した美女の方なのである

本来試練を与えられたはずの野獣は、なんら試練を乗り越えていないのだ



やっぱりブスだった



これは前々からかなり気になっていたのだが、今回ブログを書くにあたってひとつ気になる点があった


原作はどうなんだろう?


そしてWikipediaの原作のページを見ていると、こう書いてあるのを見つけた



「ラ・ベル(フランス語で「美女」という意味の一般名詞)」と呼ばれている心の清い末娘が


なんと!!



ベルという名前は美女という意味だったのか!!


これなら美女と野獣は言い換えればベルと野獣



美女かどうかは一旦保留である



続けてWikipediaを読んでみるが、ベルの容姿に関する記述は意外なことになかった

ベルは果たして美女なのか否か?わからないので考察することにした

ヒントとなるのは「心の清い末娘」と、容姿に関する記述がないことである




皆さん考えてみて欲しい




「あ〜〜、彼女欲しいな〜」と言っていたら、女友達が自分の友達を紹介してくれるという


「どんな子なの?」と聞いたら



「凄くいい子だよ」



と言われた時



または、自分の男友達に彼女が出来たと聞いて、写真を見せてもらって



「凄い優しそうだね」



と自分が言う時



これらの場合、たいていはブスである



ベルに関して容姿の記述がない


そしてやたらアピールされる「心の清さ」




そう、つまりベルは


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付けた名前と本人が一致しないことはよくあることである


正しい行いをして欲しくて「正(ただし)」と名付けたのに、非行を繰り返してしまう少年がいるように


ベル(美女)と名付けられたのにブスな女性がいてもなんら不思議はないのである


そしてベルがブスだったなら、物語はなんの破綻もしていないことになる



童話が現実を教えてくれる



今回やたら女性の容姿を揶揄する内容になってしまったが許して頂きたい



俺だって「優しそうだね」とよく言われる側の人間なのだから……



人間顔じゃないとかなんとか言っても、ディズニー作品だって主人公達は美男美女ばかりである


童話というものは現実の教訓になることを教えてくれるものだ


美女と野獣という物語は、原作者が女性だが



最後に野獣がハンサムな王子になるあたり、世の中顔であるということを強く教えてくれているのである